積極的に顧客と会う。ソフト開発の際には、顧客とのコミュニケーションを大切にし、顧客の要望をできる限りソフトに反映させることに。顧客様が満足に思えるソフトの制作がモットーです。
私には身体的ハンディキャップがあります。小中学校は養護学校に通い、高校は普通校で過ごしました。
私は、物理が大好きでしたが障害のため実験が困難であることから数学科を選択し、東京理科大学へ進みました。
在学中は、独学で情報処理技術試験II種に合格。
その資格を活かそうと奔走し、友人の紹介であるソフト開発会社でアルバイトをすることになりました。
思えば、このアルバイト経験が「実践的プログラミング」を会得するのに大変役立ったと思います。
大学卒業後は大手コンピュータソフト企業への就職が決まったものの、私を待っていたのは窓際族扱いの日々でした・・・。
ただ障害者採用枠を埋めるための採用だったのでしょう。
そんな状況に見切りをつけ、私は学生時代のアルバイト先への再就職を選択し、数年間お世話になることになりました。
その後、私が会社を設立することになったのは思わぬことからでした。それは勤めていた会社の経営上の問題から発生しました。
私が5、6年出張しながらシステム開発にあたった愛知のM社の対応に関し、社長とH上司との間で撤退するしないで論争になったのです。
当時、システム開発は軌道に乗り、M社からの信頼を得た結果、次々と追加のシステム提案も上がり着手していった頃でした。
そのほとんどは、H上司と私のペアで作り上げていったシステムです。
しかし「システム開発というものは、社内では他の仕事も同時に着手することが多い。出張になると、そういうこともできなくなる」
「M社は遠方なので出張費等の経費がかさむ」などの理由で、社長はM社からの撤退を余儀なくされていた様です。
また「せっかく軌道に乗りM社からも信頼されているときに、撤退ということはありえないと」とH上司は対立。
結局、H上司はM社のシステム開発を引継いで、独立することになりました。
それは私にとって青天の霹靂、否応なく渦中の人となってしまいました。
H上司からは一緒に仕事をしようと勧誘され、社長からはH上司についていくなと念を押される、水面下での綱引き状態の日々が続きました。
私には社長にもH上司にも長年の恩があり、そう簡単にどちらか一方につくことは出来ません。
とりあえず、H上司には「夜間に自宅からオンラインでプログラム開発を手伝う」ことで納得してもらいます。
そして昼間は会社、帰宅してからはH元上司の手伝い。と二重生活が4か月ほど続きました。
やはり、そういう生活は長く続きません。集中力も体力も限界を迎えそうな頃、父から声がかかりました。
この状況が起こる1年前、定年退職した父は有限会社を設立していました。
私の体調を心配する、父の意見を取り入れ、籍を置くことにしました。
今まで培った様々な経験から「効率的なことは、思いやりから生まれる」との思いがあり、一人でも多くの人に喜んでもらいたい。
私は、中立を保つ形で「私は私で独立します」と社長に伝え、独り立ちすることにしたのです。
コンピュータは、只の箱です。ソフトウエアを導入して、初めて効率的な業務ができるのです。
そのソフトウエアは、お客様のニーズにあったものでなければ、効率的な業務はできません。
私共の側からお客様のニーズを誠心誠意汲んで行くことが、効率的で良いソフトウエアを作成する第一歩だと思っております。
*本部は以下を参考にさせていただきました。
1.(財)日本障害者リハビリテーション協会発行「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1997年7月号(第17巻 通巻192号)52頁〜54頁
2.東京都調布市の地域情報サイト ぶらり調布
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